ぱちん、ぱちんとバネのごつい足の爪を切る音が雑に散らかった部屋に響く。あたしは自分の足の先を見つめるバネの横顔を眺めながら、今のタイミングかなーと頭の隅で考える。












「はるかぜ」











言い慣れない響きを口に含むと、くすぐったいような感覚が首元に上ってきた。当の本人も呼ばれ慣れていない響きに怪訝な顔をしてあたしの方に顔を上げる。そして「どうしたんだ?」と予想通りの言葉を使ってあたしに問いかけた。













「あたし、バネのこと名前で呼びたいなって。」


「呼びにくくねぇか?」


「だってさぁ、みんなバネって呼んでるじゃん。」











女の子とかも、と付け加えるとバネは気の抜けたような顔をした。
テニス部の部員からクラスメイトやまでみんなにバネ呼ばれている彼を、あたしも当然の様にそう呼んでいる。誰に対しても分け隔て無く接するバネは、正直彼女のあたしと他の女子の扱いに違いなんて無い。
バネのそういうところを好きになったという事実とは矛盾するように、あたしだけの特権を持ちたいという欲望も顔を出す。







ずっと春風と呼べるタイミングを探していた。











「今更だろ。」


「えーでも、付き合ってるし下の名前で呼びたいよ。バネだって下の名前であたしのこと名前で呼ぶじゃん」









あたしが言うと、バネは困ったように頭をかいた。









「呼ばれ慣れねーんだよな」


「結婚してもバネって呼ぶわけにはいかないじゃん。」


「結婚すんのか!?」






あたしが口を尖らせて言った言葉に、バネが大声を出しながら爪切りをがちゃんと床に落とした。予想外の言葉を言われたという顔だ。








「いや、そこまで考えてないけど。」










そんなに反応するとは思わなかったと思いながら、否定するとバネは「ああ、そうか」と呟きながら切った爪を集めてゴミ箱に捨てた。


でもその集め方がなんともいい加減で適当なので、床に細かい爪の破片が残ってしまっている。誰がこんながさつな人と結婚なんかと思う反面、付き合ってるとはいえ、あたしは結婚の対象外なのかぁと明らかに落ち込んでる自分がいて嫌になる。












「爪残ってるよ。全部片付けなよ。」

「あ?ああ…、何いきなり怒ってんだ?」










こういうことに疎いなバネは、つい口調の荒くなってしまったあたしに不思議そうな顔をしながら残ったゴミをゴミ箱にいれた。それが更にあたしの神経を逆撫でして、ついムキになってしまう。











「なんでゴミ全部ちゃんと捨てないの。」


「はいはい、今捨てただろ。」


「いつも言ってるのに。」


「だから何でお前イライラしてんの?」












あたしの口調につられるように、バネの口調が少しだけ強さを含んだ。
自分が発端になって嫌な雰囲気になったのに、バネの変化を感じ取ったら急に不安になった。












「だって、バネが結婚しないとか言うから!」

「しねぇとは言ってねーよ!てかお前、そんなこと考えてんのか?」

「あたしも思ってないけど、否定することないじゃん」










あたしだってそんな先のことまで考えてるわけじゃないけど、付き合ってるからにはバネのことは好きだし、そんなバネのあまりにもな言いぐさは傷つくものがある。
あたしの反論の声にちょっぴり震えが混じってきたのに気付いたのか、バネがあわてた様にあたしの方に向き直る。













「あーわかったよ、結婚しようぜ。十年後ぐらいに」


「何その言い方!軽すぎるよ」






ジュース買ってやるよ。というのと同じ調子でそんなことを口にしたのがまた気になってあたしが声をあげると、バネは「本気だって、それまで続いてたらな。」とまたしても簡単に言った。ああ、でもバネにあたし達の関係について真剣に語れなんてことを期待するだけ無駄な気がする。デートと銘打って、部活の潮干狩りに連れて行くような奴だった。














「本当、ふっわふわだよね。春風だけに」







あたしがどさくさに紛れてちょっと思いついたことを言ったら、バネは焦った表情をすぐになおして「やっぱお前とはねーわ」とダビデくんと同じような扱いをされた。




あたしがバネのことを春風と呼べる様になるのも、その必要に迫られる日もまだまだ遠い気がする。














--------------------------10.04.19
中学か高校くらい