記念日、と考えて真っ先に思いつく日がある。それは、あたしと跡部がつきあい始めた日よりも、初めて迎えたクリスマスよりも、ずっと大事にしたいと思っている瞬間が訪れた日。





あの暑い夏の日、跡部が青学の一年生に負けてしまった試合。あたしはその一部始終を見ていた。フェンス越しに跡部が立ちつくし気を失うのを見つめながら、自分の手に滲んだ汗を日よけ代わりに持っていたタオルで拭った。

あたしは跡部がたつテニスの世界の、こういう瞬間を初めて目にした。
今までは、ゲーム感覚で楽しそうに、自分の思うままに試合をしている彼しか見たことなかった。でもあの日は違った。じわじわと敵を追い詰めていくようなテニスをする跡部が今まで見たこと無いくらいに相手を責め立てた。そして、初めて見た王様の敗北。
いつものうるさいぐらいに響き渡る氷帝コールもない、あたしだけじゃなく跡部が引っ張ってきた部員達がみんな息を飲んだ光景。






彼をあんなに遠くに感じたのは、初めてだった。
毎日毎日、トレーニングをしていても、部活に顔をだしても、生徒会の会議に忙しくしていても、どれもあたしの興味のないことだったけど、あたしは寂しいという感情をいだいたことは微塵も無かったのに。
いや、跡部がそうさせなかった。彼はいつだって、朝はあたしの教室に顔をだし、お昼を一緒に食べて、一人の仕事の時は生徒会室のソファーにあたしを座らせた。放課後は必ずあたしの家まで一緒に歩いて帰ってくれて、貴重な休みの日にさえ、あたしを部屋に招いてくれた。





けれど、頭でわかっていただけの跡部の王様という立場の本質を、あたしはその時にはっきりと見せつけられ、理解した。跡部の一日も欠かさずに積み重ねているトレーニング、自分の下にいる200人の部員達。その誰もが跡部がまっすぐ君臨することで成り立っていることを全部、彼は背負い込んでいること。ううん、背負い込んでいるっていうのは間違った言い方で、跡部はそれを義務でもなんでもなく、ただ当たり前のことのようにやってのけていた。





生意気な一年生がバリカンを持って跡部の髪に手をかけた時だって、あたしは「やめて!」と大きな声で叫び出したいのをやっとの思いで押さえた。
部外者のあたしが口出しできない領域だった。



そして、あたしはレギュラー達が立ちつくす場所に近づいて、忍足に「あたし先に帰るね」と声をかけた。いつも飄々としていて何事にも動じない忍足が「ああ、ほなな。」と跡部から視線を外さずに空返事をするのを聞いてから、あたしは試合会場を後にした。















その夜、あたしは随分と悩んで、跡部の家を訪ねた。
跡部が試合に負けるのを初めて見た。正直、自分の知らない跡部に会うのは怖かった。このまま何もせずにそっとしておくのか、メールや電話だけでもいれて様子を伺うだけにしようか、自分のベットの上で散々迷ってやっぱり怖くても、跡部の顔を直接見ておこうと思った。そうしないと、これから跡部と一緒にいられない気がしたからだ。




跡部はさっき帰ってきたところで、今はシャワーを浴びているとあたしは先に彼の部屋に通された。

いつもなら自分の部屋同然に感じるこの場所も、なんだか居心地が悪かった。着ていたパーカーを脱いでソファーにかける。こんなに暑い日なのに、風通しの良い跡部の部屋の夜は、ワンピースからでた肩が肌寒い気すらした。
テレビを見る気にも本を読む気にもならなくて、部屋の真ん中にある大きなベットに登りなんとなく横になってみる。
いつ見ても悪趣味、と思ってしまうシャンデリアを見つめながら、跡部が早く戻ってこないかな、という気持ちと、どんな顔して会おうという不安な気持ち。二つの気持ちがあたしの中で押し問答する。




しばらくして、部屋の重い扉がガチャリと音を立てて開いた。あたしはハッと身を起こして顔をあげる。

短く切りそろえられた髪を濡れたままにした跡部があたしを視界の中にいれて、そのまま真っ直ぐにこっちへと歩いてきた。あんな試合を見てしまったせいか、跡部の足取りがいつもより重い気がする。





「おつかれさま…。」



あたしの小さく呟いた言葉に跡部は返事もしなかった。ベットに膝をかけた跡部の腕が目の前に置かれた。そして彼は、あたしの首に顎を置いた。


それから、小さくため息をつき、かすれた声で「疲れた。」と一言だけ呟いた。
あたしは少し驚いて息を飲む。それを振り払ってしまわないように、視線だけ跡部の方へむけて様子をうかがっているうちに、彼の頭は鎖骨、胸、腹とゆっくりと落ちていって、あたしの膝へと置かれる。

その間中、あたしの心臓は初めて跡部に触れられたかのようにドキドキと高鳴り続けていた。



跡部が「疲れた。」なんて言って、他人に身を預けるのをあたしは初めてみたから。それが彼女であるあたしであってもだ。




”あたしにくらい弱い所見せてよ”なんて思うタイプなんかじゃないけど、いつもどっしりと学園の上に、テニス部の頂点に君臨することを余裕でやってのけてる跡部が、疲れ切ってあたしの膝の上で子供の様な姿をしている。



自分の膝の上でうつらうつらとする、跡部をじっと見つめてみる。ワンピースのスウェット地越しに彼の体温があたしの太腿に伝わってくる。そういえば、跡部が眠りに落ちそうな所なんて初めてみるかもしれない。いつもはあたしが先に寝てしまう。一度、怖い夢を見てしまった時に「あたしが眠るまで、起きていてね。」とねだったからか、あたしの眠る寸前の記憶は、常に隣で跡部が頬杖をついて少し笑っているところで途切れる。



そう考えて思わず口元を緩ませるのと同時に、跡部の口元もかすかに動いた。





、」

「ん?」

「今日、悪かったな。」

「あとべ、なんで謝るの?」

「ビビッたろ、お前。」

「……うん」


少し悩んで、返事した。跡部を見つめながら、言葉を続ける。


「でも、行って良かった。」

「そうか、 」






あたしは跡部の肩にかかっていたタオルを手にとって、短くなった彼の髪をそっと包んで、含まれた水分を取り除く。本当はドライヤーもかけてあげたいけど、膝をひきぬくのも、大きな音で彼の意識をはっきりとさせてしまうのもためらわれた。
きれいな額に指を這わせ、前髪の根元から髪をすく。跡部がいつもあたしにやってくれている仕草だ。彼の目が細く緩められ、すぅっと気持ち良さそうに息を吸い込んだ。




しばらくすると、跡部の瞼が完全に閉じられた。眠ったのかな?と思い、顔をのぞき込んでみる。 キレイにのびた長いまつげはピクリとも動かない。しばらく、跡部の顔をじーっと見つめた後、あたしは彼の額にキスをひとつ落とした。彼を起こしてしまわないように、軽く触れるだけのキス。跡部のまつげは少しも揺れない。
次に形の良い眉、くっきりとしたくぼみのある瞼、肉の薄くついた頬、高い鼻、冷たい耳、とがった顎、線の通った首筋・・・あたしは跡部の顔中の至る所にキスを落としていった。




もうあたしの心には跡部との距離を感じる気持ちなんてちっとも無かった。今日はあたしが足を踏み入れることのできない、彼とテニス、その仲間達の世界を垣間見た。でも、あたしと跡部以外の誰にも触れることのできない瞬間があるってことも知った。あたしはそれを大事に大事に育てていこうと思う。
いつもストイックで弱みを見せない、まるで弱みなど元々ないように振る舞う膝の上の彼が愛おしくて仕方がなかった。
















------------------------2012.02.22




素材おかりしました