そろそろ帰ろう。今日の夕飯は何かなぁ。 放課後の、もうすっかり暗くなった教室にいたあたしが、そう思って持ち上げた鞄の中で携帯が鳴った。取り出してみると、着信にも受信履歴にも一番多く名前を残す彼からのメール。開いてみると、”生徒会室にいるから来いよ”という簡潔な内容があたしのこれからの予定を少し不安定なものにした。 「あ、さん。今帰りー?」 廊下で同じクラスの数人の女子とすれ違った。みんな部活を終えた帰りのようで少し疲れた、でも爽やかな感じだ。 「そう思ってたんだけど、生徒会室に寄ってこうと思って」 あたしがそう言うと、「あ、跡部くん?仲良いね」と一人の子が笑った。伝染するように、「あの跡部様だもんね」「俺様すぎない?」「喧嘩とかするの?」と興味津々といった質問が飛んでくる。あたしはひとつひとつに答えていく。「そんなことない、優しいよ」「どっちもそんなタイプじゃないから喧嘩はあんまりしないよ」 しばらく談笑をしていたら廊下の向こうから見慣れた姿が歩いてきた。女の子達が「あ、忍足じゃんー」と少し色めきたった声で言う。名前を呼ばれた忍足は顔を上げて「おーなんや。よおけ人おるな、お疲れー」と頭をかいた。テニス部のきつーい練習の後だからか、いつもの教室で見る時よりも疲れているように見える。 「忍足お疲れさま」 「おーおつかれさん。今帰り?」 「うん、ちょっと跡部んとこ寄ってく」 「そうかー。あ、跡部なぁ、今日ちょっと機嫌悪かったかもやで」 「本当?」と言ったあたしに忍足は「うーん、多分」という曖昧な返事をした。 それを聞いてたクラスメイトが「彼女にあったら大丈夫じゃない」なんて笑った。忍足が「せやったらええねんけどなあ」と眼鏡の奥の目であたしの顔をのぞくように見る。 その視線はどうも居心地の良いものではなかったので、「とりあえず、行ってみる。明日ね」とみんなに手を振った。 ノックをしてドアを開けると、跡部は自分専用のソファに体を預けたまま、入ってきたあたしに視線を投げかけることもしなかった。忍足の言ってたことは本当だったな、と思う。自分が呼んだくせに、と少し不満を抱きながら「お疲れ様」と声をかけると「ああ」とだけ返事が返ってきた。 「どうしたの?帰らないの?」 「ああ、。お前、今日はうちに来いよ」 跡部は相変わらず不機嫌そうなまま、命令口調であたしの今夜の予定を決めた。 いつもと同じ王様の様な態度で、あたしの意志なんか関係ないみたいな言い方にあたしの反抗心が頭をもたげる。 「今日はやめとく」 「あーん?理由は?」 「お家のご飯が食べたい」 「そんなもん、いつでも食べれるだろ?」 「その言い方はないんじゃない?」 お互いに譲れない、そんな険悪なムードがあたし達の間に流れた。 喧嘩に発展してしまうかも。という良くない予感がした時、突然ドアがノックされ「失礼します」と2年の日吉くんが生徒会室に入ってきた。あたしも跡部も口をつぐんで、取り繕うように彼を見る。 日吉くんはあたしに軽く頭を下げた後、「自主練で残ってた部員も全員引き上げました」と跡部の方に向き直った。その彼の無表情な顔からは、さっきまでのあたし達の空気に気付いているのかは読み取れない。 「ああ、ご苦労だったな」跡部はいつもと変わらないトーンで日吉くんに言って「部室に帰るついでに、樺地にも今日はもう帰宅しろと伝えておいてくれ」と自分も帰るためにソファから立ち上がり、当然の様にあたしの鞄も手に持った。跡部の家に行くなんて、一言も言ってないのに。日吉くんがいるから、あたしが強くでられないことをちゃんと解ってるんだろう。 お上品な味を跡部に教えられたお上品な仕草で自分の口に運んでいく。 執事さんに一緒にどうですか?と訪ねてみたものの「私どもは」と恐縮されるばかりで、あたしがいなければ跡部はこの広いお家で一人きりで食事をとらないといけなかったんだろうか。 今日も跡部のご両親の姿はこのお屋敷にはなく、「祖父さんと親父の仕事にお袋も」と跡部のいつも通りの言葉が目線を落ち着かせないあたしに答えをくれた。お仕事といっても、今回はニースらしい。相変わらず仲が良いな、と一人では広すぎるソファに腰掛けながら考えたのを思い出して、テーブルの向かい側に座る跡部をちらりと盗み見る。 「跡部ってさ、イギリスでもこういう料理食べてたの?」 「まぁな」 「ふうん」 「まあ、イギリス料理は一般的に評価は高くねぇ。だが、イギリス料理でも家庭料理は別だぞ」 あたしの素っ気ない返事を気にもとめてないように話をする跡部に、懐かしむような声のトーンが混じっていた。顔を上げて跡部を見るとあたしの方を見る表情に笑みを乗せている。「あたしもそれ食べてみたいかも」と言うと決して愛嬌のあるとはいえない彼の顔にまた少し嬉しそうな表情がのった。 「家庭料理って、跡部はこういう」とあたしは目の前にあるお皿に小さく繊細に盛られた白身魚を指して続ける「こういうのが好きじゃないの?」 跡部は自分の薄切り肉を食べ終えたようでナプキンで口元を拭いながら「いや…」としばらく考えている様な間をとって「あれはなかなか味わい深いからな」と答えた。目の前のご馳走は最高に美味しいけれど、あたしもさっきメールで断りを入れた家のご飯がやっぱり惜しい。 もう一度、この広いテーブルで一人きりで食事をとる跡部の姿を想像してみる。いつも凜としているうちの学園の王様でも、一人きりの食事なんて前菜からデザート、食後のお茶まできっと味気ないものだろう。最後の一切れのお魚を運ぶ前に、あたしは跡部の方に口をひらいた。 「今度、あたしの家にご飯食べにおいでよ。ママのご飯美味しいよ」 あたしの言葉に跡部はまた少し黙ってから「ああ、そうだな」とあたしの提案に小さく頷いた。その少しの沈黙と珍しくためらう様な返答は、彼が自分とは違う世界に踏み込むのに躊躇しているからだろうか。こういう瞬間に遭遇する度に、悪趣味ながらあたしは跡部のことを好きな気持ちが深く深くなっていくことを認めざるを得ない。跡部景吾の嫌なところも、怒っていることも悩んでいることも、他の誰にも絶対教えてあげない。と思ってしまうのだ。 運ばれてきたヌガーグラッセを銀色のスプーンですくって口に入れたら口の中に苦みが広がった。ちょっと苦手かも。と思いながら、それでもやっぱり彼と同じものを食べれることにあたしは幸せを感じた。 |
------------------2012.05.08 |