冬の寒さはどこへやら、あっという間に昼から夜になるのが長くなって、日が経つにつれ気温もどんどん暖かくなる。制服の上に羽織るものもコートを脱いでカーディガンからベストへと周りの景色も肌で感じるものも、まだまだ先とはいえこれからやってくる暑さに備えて変わっていく。


変わらないのは、あたし達の短いスカートの丈とぐっと上に向いた睫毛の束。可愛いかそうでないかのたった一つの判断基準と、男の子の話題。






「でさあ、昨日仁王がー」

「まじで?」

「超かっこよくない?仁王。同じクラスでよかったー今回のクラス替えにマジ感謝」

「いいな〜仁王と同じクラス!しかもブン太もいるでしょ?」

「あ、あたしもブンちゃん派!」

「えー仁王のが良いじゃん」

「ブン太は楽しいんだよー。は?」





自分に振られた話題の答えを自分の爪にヤスリを当てながら、あたしは少し考える。




「あたしもブン太君かも。でもテニス部なら切原赤也も可愛いかな」

「あ〜わかるわかる」





鼻をつくような香りを放つマネキュアのビンを振って言ったら、一人はヘアアイロンで髪を巻きながら、一人はビューラーをライターであぶりながら頷いた。あとの一人は「あたし年下はムリー」と雑誌をめくる。


昼休みの喧噪の中、教室の隅を乗っ取ってあたし達はお弁当を食べ、雑誌をめくり、来るべき放課後に向けて髪を巻いたりメイクを直したりと忙しい。合間に口を動かしてお喋りする。その話題はもっぱら男の子、強くてかっこいい子達がいっぱい所属するテニス部の仁王やブン太君の話になりがちだ。






「ってか真田は今日も朝からうざくてさー。何であいつが風紀なの」

「ああ、同じクラスだもんね」

「柳生もだよー。ありえなくない?」

「あのジェントルマンでしょ。良かったあたしジャッカルとで」

「ジャッカル良いよね、優しいし。、F組って誰かいたっけ?」




髪を巻いていた子が手をとめてあたしを見た。
あたしは鮮やかな色ののった十本の指の先を広げて、最後の仕上げにキラキラのラメを乗せながら答える。





「うちのクラスはいないなあ。あたしもブン太君と同じクラスが良かった」


















ああ、そういえばこの人もテニス部だっけな。
サラサラと揺れる黒髪と試験管の間を縫うように動く長い指を交互に見ながら思う。


昼休みの会話では思い出せなかったけど、5限目の理科の実験グループで同じ班になって、あたしはクラスメイトの柳蓮二がテニス部だったことに気が付いた。
柳蓮二はすらりと伸びた長身と大人びた振る舞いで決して目立たないわけではない男子だ。でもテニス部でいえば仁王やブン太君の方を指示するあたし達は、勉強もできて日頃の素行も良い彼は天敵である真田や柳生まではいかないものの話題の対象からは外れてしまう。





現に今も試験管とフラスコを覗き込んでは、こまめにメモをとっている彼。
柳蓮二以外の同じ班の子達はこまめにとはいかないものの、教師から与えられたプリントに実験の経過を書き込んでいる。


あたしはいまいち作業に集中する気も起きなくて、ぼんやりと頬杖をついて同じ班の子達の様子を眺めていた。
真面目を絵に描いた様な女の子は解らない所を見つけては柳蓮二に「柳君、これってどういうことか教えて貰って良い?」と小さな声で質問をする。その子の視線が柳蓮二が指す参考書じゃなくて、彼の横顔に向けられているのに気付いてもテンションはあんまり上がらないなぁ。と思っていたら、柳蓮二の視線が突然、参考書からあたしの方に向けられた。







、いい加減に参加したらどうだ?」



あたしが世界で一番嫌いな注意の言葉が降ってきた。柳蓮二がその細い目の奥の瞳であたしを見ている。あたしは心の中で舌打ちをして、手元のプリントに目を通して今やっている作業の確認をした。






「この温度、計れば良いの?」


目の前で湯煎されているビーカーをさして聞けば、「ああ、頼む」と簡潔な答えが返ってきた。沸々と蒸気のあがるお湯の向こうの温度計をとろうと手を伸ばす。










「あぶないっ」


柳蓮二の声と、あたし手が電熱器の上のステンレスの容器をひっくり返したのが同時だった。皮膚に走った衝撃にそれが熱か痛みか判断する前に手をひいた。



鍋が机の上に引っくり返り、お湯と薬剤の入った液体が音をたててあふれるのを横目で見ながら、あたしは最悪っ。と心の中で呟いた。
教室にいるみんながあたしの方に注目する。あたしは「すみません。」と教師に一言告げて、窓際に並べてかかっている雑巾を取りに行こうと席を立った。





ところがまだ熱を持っているあたしの右手の手首がグッと引っ張られて、あたしは一歩も足を踏み出せなかった。振り向くと、柳蓮二があたしの手首をつかんでいて「早く冷やした方が良い。」と机の横に備え付けられている蛇口まであたしの体ごと促した。

あたしが驚いている間に、柳蓮二は蛇口をひねり水を勢いよく出した。そしてあたしの右手を流水に差し出す。さっきとは打って変わって冷たさが自分の手を打つ。でも、柳蓮二の手が自分の手首をつかんだままなのに、あたしは違和感と彼の手の熱を同時に感じてしまう。それなのに柳蓮二は涼しい顔をしてあたしに口を開いた。





「手を放すと、冷やさずに雑巾を取りに行くだろう?」



口に出さなかった自分の疑問に答えまでつけられて驚いていると「そういう顔をしている」とまた柳蓮二はあたしの心の中を読んだ。






「だって、あれ散らかしたの、あたしだし…」

「何のための班による研究だ?」






柳蓮二が同じ班の女の子にすいと視線を投げかけると、その子は「あ、私とってくるよ!」とあたし達に背中を向けて窓の方へと雑巾を取りに行ってくれた。ありがとう、と思いながら少しだけ柳って…と思ってしまったけれど、また彼に思考を読みとられるのはごめんなので慌てて下をむいた。


そんなあたしを気にもとめない様子で、柳蓮二は蛇口をきゅっとひねり水を止めてあたしの右手の様子を見て「これなら痕は残らないですみそうだな」と呟いた。






「ありがとう」

「いや。大したことじゃない。こぼれた薬剤も大袈裟なものでなくて良かったな」




本当に何でもないと思わせる様な口調で言ってから、視線をあたしの手で止まらせて「…すごい色だな」と彼は呟いた。火傷のことではなく、爪の色のことを言っているのだと解り、背の高い柳蓮二を見上げて聞いた。





「派手かな?」

「そうだな、少し。、これを」




彼にとって爪の話題は興味を持つものに値しないのか、さらりと流された。
柳は机の引き出しから備え付けのビニール袋を取り出して、あたしの右手に巻きつけ始める。





「何これ?」

「こういう火傷は空気に触れると痛みを伴うからな。少しは和らぐだろう」







そう言って彼はふっと口元に笑みを浮かべた。笑うんだ…。と柳蓮二の顔を見つめていたあたしは急に恥ずかしくなって「柳、ほんとにありがとう。ごめんね」と言ってから柳蓮二の手から右手をそっと引き抜いて、自分が散らかした机の上を片付けてくれていた女の子に「ありがとう!後はあたしがやるよ」と左手で雑巾を受け取った。

机の上を拭きながら、柳の言った通り今日の実験で使っていた薬剤が大変なものでなくて本当に良かったと、心の中でほっとした。















「ねぇ、あとでテニス部見に行かない?」

「ええ?テニス部?」

「幸村くんが退院したらしいよー」

「うっそ?精市くん復活!?」

「えー!行きたい!!も行くよね?」

「へー、行こうかな。柳もいるし」

「柳?」

「ああ、データの?」

「そう。同じクラスなの」




「へーそうなんだ。あ、そうそう仁王も今日がさー!」





口々に騒ぐ友人たちを横目に眠気の冷めない頭であくびをした。窓の外の校庭ではこの間まで柔らかい黄緑に染まっていた桜の木々がもうすっかり深い緑に変わってきている。柳蓮二、ねぇ。心の中でそっと呟いた名前はどうもしっくりこなかった。








「っていうか、のネイルどうしたの?ベージュとか地味すぎない?」







----------------------2012.03.31