この湿気と暖房と人の熱気が充満した満員電車に乗り込んだ時から居心地悪そうだった跡部くんの顔色が、二駅目には真っ青になり三駅目を過ぎるころにはシルクのハンカチで口元を抑え、4駅目に着くころには限界が来たように見えた。あたし達の周りにいるOLのお姉さんや同じ学生カップルも、美少年である跡部くんの異変にちらりちらりと視線を投げかける。あたしが「降りる?」と聞いたら小さく頷いたので跡部くんの背中を押しながらその次の駅で降車した。 元々、跡部くんが朝一番にあたしの家に来た時から一緒に傘をさして駅に向かう途中、モタモタと切符を買う時、ホームに電車が来るのを待ってる時まで、ずっと「本当に乗るの?今日は雨だからいつもより人多いよ?」と何度も聞いていたのだ。それなのに跡部くんは「乗るに決まってんだろ、あん?」という姿勢を頑なに崩さなかった。 でも電車がホームに滑り込んで来て、そのドアが開くと、人がすし詰め状態になった車内と暖房と湿気による不快な熱気と匂いに跡部くんは顔をしかめて口元をおさえた。 そりゃそうだよね。毎日この電車に乗って通ってるあたしだって、こんなに寒くて雨の日に人がぎゅうぎゅうになった空間は気分が悪くなりそうだもん。 「跡部くん、気持ち悪い?トイレ行く?」 降りたホームであたしがそう聞くと、跡部くんは口元をハンカチで押さえたまま小さく首を横に振った。「じゃぁ、ちょっと座って休む?」と跡部くんを促してベンチの方に移動しても、彼はあたしの肩に腕をおいて、少しだけ、あたしの負担にならない程度に自分の体重を預けたままだった。「ああ」と思ってあたしは自分の鞄の中からハンカチを取りだしてベンチに敷いた。 そこを指しながら「ここに座る?」ともう一度聞くと、跡部くんはやっと腰をおろした。冷えた空気に当たったからさっきよりはいくらかマシだけれど、相変わらず顔色は悪く心配だ。 「ごめんね、跡部くん」 あたしが謝ると「ばーか、お前の責任じゃねぇだろ」と跡部くんが言ってくれた。声は小さいけれど、いつもの彼の調子にほっとする。 そもそもの始まりは、あたしが昨日の通学途中に痴漢にあったことだった。 朝のラッシュで混雑する車内の中、誰かの手があたしのお尻を撫でた。最初はたまたま当たっているだけかと思っていたその手がだんだんと執拗になっていくのにつれて、あたしの背中に冷や汗が吹き出した。結局、恐怖に負けて声を上げることもできずにあたしは電車を降りた。友達の話を聞く限りもっとひどいことする奴はいっぱいいて、スカートの上からお尻を撫でられるのなんて軽いものだとは思ったけれど、それでもあの恐怖はお尻の不快な感触とともに残っていた。 「あ、跡部くん。おはよう」 「ああ。どうした?顔色が優れねぇが…」 学校に着いて教室に入ると丁度部活を終えた跡部くんがあたしの席に来てくれた。彼の観察眼であたしの不調は丸わかりらしく、跡部くんは少し心配そうな顔をしてくれた。「うん、えーと」とあたしが言うか言うまいか迷っていると、「言ってみろよ」と少し顔をしかめた跡部くんに言われたので、このまま濁しても追求されるなぁと思って朝にあったことを全部話した。 で、そこからは跡部くんが犯人を捜し出すと激昂なされた。あたしが何にも特徴覚えてない(というか、すし詰め状態の中で振り返るなんてできなかった)ということが解ると、「明日は俺様も電車とやらに乗って、そいつを見つけ出してやる」と意気込んでいたので「やめなよ、朝のラッシュは跡部くんには無理だって」ととめるのにも関わらず「あーん?俺様に不可能はねぇんだよ」と言って聞かなかった。 でも結局、4駅でリタイアしちゃった跡部くん。駅に迎えに来てくれた跡部くん家の車で学校まで送ってもらっている間もぐったりと皮のシートに体を預けていた。 あたしはその隣で跡部くんの手をぎゅっと握りながら、こんな結果になってしまったけれど、あたしの為に怒って行動してくれた彼を嬉しく思った。 「これからは毎朝お前の家に車を迎えに行かせる」という跡部くんの提案を断ると、跡部くんは不満そうに「何でだよ?」と聞いた。今朝のことで自己嫌悪になっているのか機嫌があんまり良くないみたい。あたしはカフェテリアで人気のジュレロワイヤルをつつきながら、正面に座る跡部くんの様子を窺うように上目使いでちらりと彼を見る。 「だって、悪いよ」 「気にすんじゃねーよ。また尻触られてぇのか?」 跡部くんの無神経な言葉に今度は彼を睨んだ。 「女性専用車両とか乗るようにするから」 「そんなもんがあんのか?」 「うん、今まであんまり使わなかったけど、あと…」 「あん?」 「あと、人が少ない時間帯の朝早いやつに乗ったりもしてみる。そしたら跡部くんの朝練も見に行けるよね?」 「見に行っても良いでしょ?」と念押しするように聞けば、跡部くんの機嫌が少し直ったようで「当然だろ」と笑顔を作って手にしていたフォークの先をあたしに振った。 * * * それから一週間。なるべく早く起きて人の少ない電車にのるようにしていて、あれからは痴漢にはあっていないし、学校に着いてから授業までの時間はテニス部の朝練を見に行ったりしている。あたしは座って見ているだけだけど、練習に励む跡部くんを見ているのはなんだか楽しい。それに、すごく付き合ってるって感じ。 そんなことを思ってあたしがベンチに座って見ていると、丁度ランニングを終えたのか「最近、よく朝練見に来てんじゃん」と岳人が、その後ろに続いて忍足が近くに寄ってきた。 「うん。朝早い方が電車空いてるし」と答えたら、「あー普通の登校時間に電車乗ったらめっちゃ人多いもんな」と忍足が顔をしかめた。 「そういえば、俺ら最近よお跡部と電車で帰ってんねん」 「へー跡部くんが電車?なんで?」 「なんや、電車乗る練習ゆうてたで」 忍足の言葉に、あたしは心当たりをすぐに見つける。 「そう、こないだね電車乗った時に跡部気分悪くなっちゃって」 「あーそうそう、それ言うてた」 「苦手なもの無くしたいのかな、負けず嫌いだよね」 あたしの言葉に忍足が「あー…負けず嫌いっていうか」と曖昧に続ける。 「なんか、その、こないだ乗った時になぁ」 「侑士、それ言わない方がいーんじゃねぇの?」 そこで、今まで黙ってた岳人が忍足を制した。忍足は少し考えて「あ、ほんまやな」と岳人に向かって頷く。 「ええ?何?言ってよ気になるじゃん」 「やめとく。跡部に怒られたら嫌やから」 「、跡部に余計なこと聞くなよなー」 そう言って、2人はテニスコートに戻っていった。何、気になるじゃない。と思ったけれど、こうなってしまった男の子ってどうせ教えてくれないと思ったのと、丁度跡部くんが後輩を相手に試合形式で練習するのが始まる様だったので、意識をそちらに集中させることにした。 「今日は俺様も一緒に行ってやる」 で、跡部くんが朝からあたしを迎えにきたのがその翌日。今日は朝練ないって聞いてたので丁度ラッシュの時間だ。昨日の忍足の話を聞いた後のあたしは、放課後に電車を練習してた跡部くんが朝のラッシュリベンジをするのかと思って、相変わらず負けず嫌いだなぁ、なんて歓心してしまった。 ドアが開いてたくさんの人がはき出されたのを待って、あたし達は電車に乗り込む。今日は跡部くんもいるので普通車両。天気は晴れで車内の不快指数はこの間よりはマシだけど、やっぱりこの時間の車内は辛い。ぎゅうっとなるのを覚悟したのに、あたしの体にはいつもの嫌な圧力の代わりにふわりと跡部くんの体が触れただけだった。目の前を見ると、あたしの背中のすぐ後ろにある壁に跡部くんが手をついて、自分の体を支えにしてあたしが収まるだけの空間を自分の胸の中に作ってくれていた。少し驚いて跡部くんを見上げると目があって彼は口の端を上げて笑った。周りからちらりちらりと投げかけられる視線はこの間の心配そうなものとは違って、いつもはこの車両に乗っていない格好いい男の子とその振る舞いを意識した熱のこもったものだ。 そこでブルル、と鞄から振動があたしの腕に伝わってきた。鞄の中から携帯を取り出す。あ、メール。忍足からだ。あたしは画面を指で触って受信フォルダを開く。 『昨日のこと、やっぱおもろいから教えたるわ。何かこの前、跡部がお前と一緒に電車乗ったのに、隣のカップルの男が人混みから女を守ってて、その横で自分はダウンしてたから情けなかってんて。やから、お前をちゃんと守れる練習。嬉しいやろ?』 計算でもしたのかというくらいタイミングの良い忍足のメッセージに思わず口元を押さえてしまったあたしを変に思ったのか、跡部くんが「なんだ?」というように画面を覗きこもうとする。その視線から逃れて携帯をポケットにしまって、あたしは「なんでもない、あっちゃんから変なメールきた」と、適当なクラスメイトの名前を出してごまかした。跡部くんはその言葉に納得したのか、それともあんまり気にしていないのか、あたしから窓の外の景色に視線を移した。 自分のすぐ横にある跡部くんの腕に甘える様な仕草で頭を添えたら、跡部くんの視線はにやにやとするあたしの顔に戻ってきて、「何か良くないなものでも食ったのか」と言って少し変な顔をした。相変わらず人は多いし熱気はすごいし、運転も決して丁寧なんかじゃなくて、ブレーキがかかる度に足に力を入れないとちゃんと立ってられない。 でも、居心地の悪い満員電車も幸せな場所に変えてしまう目の前の跡部くんの腕を頼もしく思いながら、あたしはこの電車がもう少しゆっくり進めばいいのになぁ、なんてとっても迷惑なことを考えた。 ---------------2012.05.21 跡部くんは部員にそんなことを話すのかなという不安 |