カサリ、と音がしたので振り向くとあの跡部景吾が温室の入り口に立っていた。
あの一件以来、彼とは話すどころか校内で会うこともなかった。あたしはあの時の一件の怒りはそのままとは言わないけれど、なんとなく心の中にくすぶっていた。
そのせいで「何?」という言葉も少し鋭くなってしまう。
そんなあたしの様子を気にもせずに跡部景吾は「よう」と告げる。また一歩、こちらに足を踏み出した。






「お前、まだわからねぇのか?」



跡部の不満そうな言葉にあたしはこの間の一件で、なぜか彼があたしの小さい頃の話を知っていたのを思い出す。




「ああ…あたしのこと前から知っていた?」




そう聞くと跡部は呆れた顔をしてため息をついた。その表情が昔ちょっとだけ遊んだあの男の子のものと重なったのと、跡部景吾が口を開いたのが同時だった。




「お前、昔俺の家の庭に来たことあるだろ。バラを折るなって言いに」




その言葉が決定打となって、あたしは「ええ、ケイくん!?」と驚きの声を上げた。跡部景吾はその反応に、うんざりとした表情をしながらあたしに指をさされながらも「アメリカにいたんじゃ」というあたしに「イギリスだ。あいかわらず頭が痛いな」と言うのも忘れなかった。




























その日から跡部景吾は時々、温室に訪れる様になった。
といっても一週間に一度、来るか来ないか。月曜日の時もあるし木曜日の時もある。昼休みだったり放課後だったり、現れるタイミングは特に決まっていなかった。
当初は3日おきに来ていたけれど、跡部景吾が来たら、ファンの女の子も来るんじゃないの。とあたしが顔をしかめてからは何か思いだしたようにフラっと来るようになった。






大抵の場合、跡部景吾は温室内にある白いベンチに腰掛けてお茶を飲んでいた。
先生はお茶に詳しい跡部景吾と話をするのが楽しいらしく、彼がくるといつも腰を上げて今日は〜と嬉しそうに葉っぱの説明を始めた。跡部景吾はいつもそれに相づちを打って、たまに自分から葉っぱを持参したりもしていた。あたしはその2人に勧められるままお茶を飲んで「美味しいけれど味の違いはわかんないなぁ」と思って飲んでいた。
口に出したら先生と跡部景吾、2人ともに盛大なため息をつかれるのは解っていたから思っているだけだったけれど。





そうして夏休みに入っても、跡部景吾はテニス部の練習の合間なのか時々温室に顔を出した。あたしは学校に用事は無かったけれど、やっぱり温室に訪れて先生を手伝って植物たちの世話をしたり、合間に勉強なんかもやっていた。休みの間は跡部景吾は週に2回ほど来るようになった。あたしも毎日いたわけじゃないので、もしかしたら温室を訪れてみたけれど、いなかったパターンもあったのかもしれない。



だからと言って、あたしと跡部景吾はこれといった話もしなかった。先生がいなくて2人きりになっても、跡部景吾はベンチに腰掛けて本を読んだり、何を考えてるのかボーとしてたり。あたしはあたしでバラの葉を取ったり、同じくボーッとしたり。


「今日は練習ないの?」「この後にな」とかそんなものだった。









そんな関係がしばらく続いたある冬の日の放課後。
あたしがいつも通り、温室に入るとベンチの端から男の子の足が突き出ていた。最初は跡部景吾かと思ったけれど、彼がベンチに寝そべっているのは見たことはない。それにくたくたに汚れていたスニーカーが跡部景吾ではない誰か他の男の子だということを物語っていた。近づいてみると、隣のクラスの芥川滋郎くんが寝息をたてている。


あたしは周りを見渡して先生がいないのを知ると、彼を起こさないように気をつけながら、ベンチの近くにあるテーブルと椅子に腰掛けた。それでも気配を感じたのか、それとも丁度良いタイミングで目覚めたのか、芥川くんがのびをしながら大きなあくびをする。目を擦っている彼とあたしの視線が交わって彼が「あ、さん?」とまだ目の覚めきってないような声であたしの名前を口にした。





「あれ、芥川くん、あたしのこと知ってるの?」


「うん。知ってる。おはよう」




芥川くんにおはよう、と返事を返しながら、クラスも違って話したこともない彼があたしのことを知っているのは意外だと思った。あたしは彼のことを知っていたけれど、芥川くんはなんていうか、人の名前を覚えているようなタイプに見えなかったから。
あたしが驚いているのを気にもとめないように、芥川くんはまたあくびをして周りを少し眺めるようにしてから「ここ、あったかいね」と話しかけてきた。


あたしが「温室だからね」と答えると「ふーん」という答えが返ってくる。そのまままたあくびをした彼の様子をしばらく眺めていた。マイペースだ。








「テニス部、練習行かなくていいの?」


「うーん、目さめちゃったし行こうかな」


芥川くんはまだまだ眠そうな面持ちであたしの質問に答える。


「でも、そろそろ迎えが来るかも」








「迎え?」と首を傾げたあたしの後ろの入り口に誰かが入ってくる気配を感じた。振り向くと、いつも跡部景吾と一緒にいる樺地くんが立っていて、こっちに軽く頭を下げていた。樺地くんもたまに跡部景吾を呼びにくる時と同じように少し遠慮するように室内に足を踏み入れる。

そんな樺地くんに芥川くんが「おはよー。ナイスタイミングだね、樺地」なんていってやっと腰を上げた。






「またねーばいばい。さん」


「うん、練習頑張ってね」





ひらひらと手を振った芥川くんに同じように手を振り返す。跡部景吾がここを出ていく時はいつも「じゃあな」「うん」っていう言葉だけだし、目線すらあわせないことだって多いので何か変な感じがした。












その日は結局先生が来なかったので、あたしは植物に水をやって、ちょっと弱っているのには栄養分の薬をあげた。テーブルで今日の授業の復習をしていたら、また温室の入り口が開いた。今度は跡部景吾だった。


跡部景吾はジャージではなく制服を着ていて、もう部活が終わった後だってことが解る。
でも今日はなんとなく機嫌が悪そうだ。いつもとは違って何か絡みにくい感じがする跡部景吾の様子を窺っていると、先に彼が口を開いた。






「さっき滋郎が来たんだってな」


「うん、来たっていうか、寝てたんだけど」


「なんで部活あるって解ってんのにさっさと来させねぇんだよ」






跡部景吾が不機嫌そうな声色のまま、あたしを責める様に言う。
どうやら芥川くんをさっさと起こさなかったことを怒っているらしい。
でもテニス部のスケジュールなんて芥川くん以上にあたしは知らないし、跡部景吾に怒られる筋合いもないと思う。そんな気持ちを少し抑えてなるべく冷静に、と自分に言い聞かせる。





「でも、芥川くんはすぐ起きてすぐ練習行っ」


「言い訳は聞いてねぇ」





けれど言い終わらないうちに厳しい口調であたしの話は打ち切られた。
「良いか、とにかく…」と続ける跡部景吾の顔を睨みながら「なんであたしがそんなこと言われないといけないの?」今度はあたしが話を遮る。その言葉に、跡部景吾の眉間の皺が一層深くなる。





「今日なんか変だよ。あたしに八つ当たりしないで」





図星だったのか、跡部景吾は入り口に立ったまま温室の扉の枠に激しく拳をぶつけた。室内にがしゃん、と大きな音が響き渡って思わず目を閉じ肩をすくめる。
おそるおそる開いた目が跡部景吾とあって「怖い」という感情が一気にわき上がってくる。でも大きな音くらいでびびっているなんて、悟られるわけにはいかない。




「もう…こないでよね」


「ここはお前の場所か?違うだろ?」




跡部景吾は馬鹿にしたような含みをもたせる。その言葉自体にはあたしは何も反論できない。
上手く言い返せる言葉を見つけることもできずに悔しい思いだけがぐるぐるとお腹の中をまわって浮かんできた言葉のままに「顔も見たくない」と口に出した。跡部景吾は怒って大きな声でも出すのかと思ったけれど、しばらく黙った後そのまま背を向けてしまった。自分の中に残る怒りをうまく納めることもできずにあたしはその後ろ姿を睨んだ。気がつけば、こんな冷えた空気の中であたしの背中はじんわりと汗ばんでいた。












その次の週、廊下で芥川くんに会った。あたしが挨拶しようか迷っていたら、彼の方から声をかけてくれた。




「ごめん、さん。こないだ跡部怒ってたでしょ?」



あたしは思い出したくない話題を出されて「うん」と呟く。



「あの時、結構大事な練習試合でさーすっげー怒られたんだ」




だからか、と心の中で合点がいく。そんなあたしに芥川くんが「温室で寝てたって言わなきゃ良かったんだなぁ。あの後跡部が温室行ったって聞いてさー」と頭をかいた。




「うん、喧嘩しちゃったんだ」


「まじまじ?俺のせいかな?」


「うーん、わかんないけど」


「でも多分、これからも昼寝しに行こっかなーって言ったのも悪かったと思うんだ。あと、さんと会ったこと話したら機嫌悪くなったからそれのせいかも」




芥川くんはうーんと首を傾げて考える真似をした後に「よくわかんないけど」と呟いて、そのまま「こんなこと言うのもなんだけど」と続けた。





「次、跡部に会ったら謝ってあげてよ」

「あたしが謝るの?」




芥川くんの意外な言葉に思わず声が大きくなってしまう。





「うん、どうせ跡部のことだから自分からは素直に謝れないよ。特に女の子のことだし」





「まぁ、さんが良かったらなんだけど」と芥川くんはまた眠くなってきたのか、あくびをしながら自分の教室の方に歩いていってしまった。軽くあたしに手を振るのも忘れずに。芥川くんがあんなことを言っていても、あたしは自分から謝る気なんてなかったけれど。それに跡部景吾はあの日から温室には顔を見せていなかった。「顔も見たくない」なんて言われたくらいだし、彼にだって謝る気はなっかたんだろう。あたしの休み時間や放課後は、跡部景吾が訪れる前の空間に戻った。だからって、先生が少し残念そうな顔をするだけで他には何も変わることはなかった。



あたしはベンチに座って勉強をし、枯れた葉っぱは取り除いて植物達に水をあげた。ただ少し曲がった入り口の枠を見る度に跡部景吾のことを思い出して少しイライラとするくらいだ。




寒い空気も少しずつましになって、桜の葉っぱも芽吹きはじめ、あたしの通う温室も日の光だけで温度を保てるようになってきた。あたしは学年が上がっても氷帝学園にいる限りはこうしてベンチでお茶を飲んでいるんだろうな、なんて頭の片隅で考える。
けれど、段ボールを抱えた先生が早期退職をするとあたしに言ったのが、春休みももうすぐ終わりにさしかかった4月の初めのこと。










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------------------------------2012.07.24
長いお話難しい